歴史を歩く(2)山の辺の道~石上神宮から大神神社へ~

 五月晴れの日だった。京都から近鉄京都線の急行に乗って1時間、天理駅で下車する。駅前からほぼ真東に伸びている通りをまっすぐに歩いていくと、天理教関連の建物群が尽きるあたりから右前方の高台に鬱蒼とした森が見えてくる。石上神宮(いそのかみじんぐう)である。国宝の七支刀(しちしとう)で有名だが、日本最古の神社の一つで、物部氏の総氏神とされている。物部氏といえば古代の警察や軍事などの職務を担当していた氏族というイメージがあり、神さびた自然の姿を残している常緑樹の森に囲まれた拝殿を前にしていると、境内の物陰から武装した兵士が出てきそうな感じがして背筋がぶるっとした。

 石上神宮から道は小さく右に左に曲がりながらも山際をひたすら南下する。桜井駅を目指して約15キロの行程だ。この山の辺の道は古代では三輪山麓から春日山麓まで盆地の東縁を縫うように通じていた道で、歴史上は日本最古の道とされている。もっとも石上神宮から北部の道は長年月にわたる風化のため現代では道筋をたどるのは難しくなってしまったが、周辺には古墳も多く、奈良盆地にある古墳群の一角を占めている。古代史ファンにとってはロマンを掻き立ててくれるような道だ。

 人麻呂万葉歌碑、芭蕉句碑、夜都伎(やとぎ)神社、竹之内環濠集落と過ぎるうち、右手前方に遠く大和三山が見えてくる。天香久山畝傍山耳成山だ。のどかな道はさらに続く。右手にある戦艦大和の守護神とされていた大和神社への道を確認しながら崇神天皇陵(行燈山古墳)を目指す。一般的には大和朝廷創始者と言われている第10代の天皇だ。およそ3世紀前半から中頃にかけて実在したとされる。現状では墳丘全長242メートル、後円部の径158メートル、前方部の幅100メートルの前方後円墳となっている。神武天皇と同様に「ハツクニシラススメラミコト」と称えられるのはどのような意味があるのか。浅学の身では論じることもできないが、大きな古墳を眺めていると古代の大王(おおきみ)の権威をまざまざと感じ取ることができる。手元のガイドマップにはここから見る夕景は絶景とあるが、夕刻までに宿に入りたい私はコンビニで買ってきたおにぎりの昼食もそこそこに先を急いだ。

 次にあるのは景行天皇陵(渋谷向山古墳)。崇神天皇陵の南側の尾根筋にある大きな前方後円墳だ。墳丘全長300メートル、後円部の径160メートル、前方部の幅170メートルである。景行天皇といえば倭建命(日本武尊)の話を思い出す。「やまとは 国のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる やまとしうるはし」高校時代に古事記を習った時に覚えた歌である。当時、弟橘比売命の話はアニメ化したらいいなあと思っていた。

 ゆっくり見ながら歩いていたのでいつの間にか午後2時を回ってしまった。額田王万葉歌碑の前を心持ち速足で過ぎていくと、纏向古墳群のエリアに入ってきた。盟主ともいうべき箸墓古墳を見ようと道を右に折れた。しばし歩くこと10分程で右側にホケノ山古墳があったが、これは申し訳ないが駆け足で見学してさらに西へ向かうと目指す古墳が見えてきた。墳丘全長280メートル、後円部の径160メートル、前方部の幅140メートルの前方後円墳だ。近くからだと大きさや形がよくわからなかったが、周囲をぐるっと回って北西部に残っている周濠(今では箸中大池というため池になっている)ごしに眺めて初めてその全容をつかむことができた。「ヤマトトトヒモモソヒメノミコト」という舌を噛みそうな名前の皇女の墓として管理されている。卑弥呼の墓とする説もあるようだが、私にはよくわからない。卑弥呼には北九州がよく似合うんだがなあと思いながら疲れてきた足を前に進めた。

 元の道に戻るといつの間にか影が長く伸びているのに気付いた。ヤマトタケル歌碑も檜原神社もあわただしく過ぎて、狭井神社の右手にあった展望台から奈良盆地を一望する。「これがまほろばの地だ」とか何とか勝手に感動してから、ふと後ろを仰ぎ見ると、恐れ多くも三輪山がどっしりとその威容を見せていた。

 大神神社(おおみわじんじゃ)は本殿を持たず三輪山をご神体とする古い神社で、大和国一之宮である。山頂には磐座とされる巨石群があるという。当然登拝すべしと思ったが、陽は低く傾いていてその余裕はなかった。地元のガイドの方であろうか、10人近くの観光客と思しき人たちに向かって声高に説明をしているのを横目に道を急ぎ、海拓榴市(つばいち)観音堂、仏教伝来の地碑と見て回り、近鉄桜井駅への近道を通って陽の落ちる頃、やっと駅近くにある今夜の宿にたどり着いた。

 駆け足ではあったが古代の空気を吸えたような気がした。やまとしうるはし。