歴史を歩く(5)都心の富士塚を巡る

富士山の北東約18キロにある杓子山に登った。標高1597.6メートル。知る人ぞ知る富士の絶景ポイントである。五月晴れの下、遮る物のない真正面に雪を頂く富士山の全景を眺望できた。息を呑む美しさである。神々しいとでも言おうか。

 私は富士山に二度登っているが、雲海の果てから昇るご来光を拝んだ時は、宗教心の薄い私でもその都度思わず両手を合わせたことを覚えている。古来、噴火を繰り返した富士山は神の山として恐れられ、その怒りを鎮めるために遥拝され、信仰の対象とされてきた。江戸中期以降に盛んになった富士講も昔からの信仰の系譜を引いていると思われる。下山後、私は富士吉田の「御師旧外川家住宅」を訪ねた。

 富士急の富士山駅前のバス亭で降りると御師町通りに向かい、金鳥居公園を右に折れ富士山を目指してしばらく行くと、左側に目指す御師の家があった。この先の交差点を左折すれば、吉田口登山道入口にあたる北口本宮富士浅間神社がある。富士講は現代でもわずかながら命脈を保っており、富士塚もかなりの数が存在していると、御師の家のガイドさんから聞いた。これには驚いた。富士塚を見たいと思った。

 数日後、私は小雨降る千駄ヶ谷の駅で、歴史好きな友人である倉橋稔氏と待ち合わせた。彼は富士講富士塚にも詳しいので、案内を頼んだのである。以下、解説は倉橋氏による。

 千駄ヶ谷の駅から津田塾大学千駄ヶ谷キャンパスと東京体育館の間の道を道なりに進み、五差路になっている2つ目の信号で左の2本目を左折、次の角を右に折れると、鳩森八幡神社があった。境内には高さ6メートルの千駄ヶ谷富士と呼ばれる富士塚がある。確かに見上げるような立派なものであった。21世紀の都会の真ん中にこのようなものが存在していることは奇跡としか言いようがない。寛政元年(1789)築造との定説があるが、それ以前にも富士塚は存在していたらしい。円墳形に土を盛り上げ、頂上近くには黒ボク(富士山の溶岩)が配され、塚内には奥宮、金明水、銀明水、砂走り、浅間社、などのいわゆる富士山名所が具備されている。大正12年(1923)の関東大震災後の修復を経ているが、旧態をよく留めているとされる。現在でも祭礼が行われていると聞いて、私は富士山信仰の根強さに驚いた。そういえば富士登山した際に白装束のグループを見かけたのを思い出した。

 富士信仰は遥拝から修験者による修行の山へと変化し、中世以降は修行者以外にも信仰登山が増え、室町時代末期に長谷川角行なる人物が出て、富士講の原型が作られた。富士講は江戸時代後半には隆盛を極めた。富士塚も盛んに築造され、東京都下に現存するものだけでも100か所余りもあるという。都内最大の富士塚品川神社にある、高さ約15メートルの品川富士である。これは後日ということで、私たちは国立競技場駅から都営地下鉄大江戸線東新宿駅へ向かった。

 A1出口から西へ200メートルの信号を左折すると、稲荷鬼王神社がある。うっそうとした樹木に覆われた社殿の左側に富士塚があった。一合目から四合目までと、五合目から頂上までの塚が左右2つに分かれている。昭和43年(1968)の社殿再建の際、昭和5年(1930)に築造された塚を敷地の都合等で2分したのだという。元の塚を想像すると、3階建てに相当するような高さがあったのではないか。由緒によれば、古来ここにあった浅間神社を明治27年(1894)に合祀したということである。いつの間にか雨が止んでいた。

 元に戻って地下鉄の駅を過ぎ、文化センター通りに入って3つ目の道を左折すると、100メートル程先に見えてくるのが西向天神社だ。九州の太宰府天満宮に向かって建てられているので西向きなのだそうである。台地上にある境内は見晴らしが良かったと思われる。社殿右奥の広場のはずれに富士塚があった。斜面を利用して作られており、今は七合目付近から下が切り落とされ駐車場となっているが、そこからは見上げるばかりの高さである。4階建て以上に匹敵すると言ってよいだろう。この塚の築造は天保13年(1842)だが、大正14年(1925)には再築されている。さて、我々は雑踏の新宿駅へ向かった。

 新宿駅西口から青梅街道を西へ行くと、駅から10分程で右側に成子天神社がある。参道を歩いていくと左側に富士塚があった。大きい。高さは12メートルあるという。ビルの谷間ではあったが己の存在をしっかりと主張していた。堂々たるものである。元々あった「天神山」という小山に黒ボクを配したのでこれだけの高さになったということだ。我々が見守る中、年配のご婦人が危なっかしく一人で登山道を登っていき、辿り着いた山頂で両手を合わせた。偶然であろうが、雲間から太陽が顔をのぞかせた。富士塚全体が浮かび上がるように輝いた。解説をしていた倉橋氏がしばし口を閉じた。今日はいいものを見たと思った。