歴史を歩く(3)天下分け目の関ヶ原

0626東京駅発新幹線ひかり501号新大阪行きに乗車、名古屋で東海道本線特別快速米原行きに乗り換えて0919関ヶ原下車。いよいよ出陣の時。戦闘開始は慶長5915日(西暦16001021日)午前8時頃とされている。1時間ほど遅参いたしたか、急がねばと、改札口を躍り出た。五月晴れの空のもと、幾本かの旗がへんぽんとしている。いざ、家康の陣か、三成か、気がせく中によく見れば「関ヶ原へようこそ」と観光宣伝の旗だった。目の前にある観光案内所で史跡めぐりの地図をもらうと、まずは駅の北側にある関ヶ原町歴史民俗資料館へ向かう。

諸説あるのは承知だが、東西合わせて15万ともいわれている大軍がその日この地にひしめいていたのだ。陣馬のいななき、兵士の雄叫び、ほら貝と鉄砲隊の響き、戦場の血と汗のにおいが充満する関ヶ原にとうとうやってきたぞ、と周りを見渡したが、誰もいない。のどかな朝の風景だ。拍子抜けがした。遠くに犬を散歩している若い夫婦連れらしいのが1組と、道路を挟んだ向かい側の歩道を腰の曲がった老婆が一人歩いているだけだ。そもそも自動車がほとんど走っていない。今日は土曜日。観光客も多いはずだが、観光バスはまだ1台も止まっていない。まだ早いのかもしれない。気を取り直して先に進む。周りの山々は新緑に覆われている。空気が澄んでいる。雲一つない快晴だ。もっとも合戦当日の朝は前夜からの霧で見通しがきかなかったと言われている。

 資料館では合戦時の東西両軍の陣形と戦いの流れを大型ジオラマで見ることができた。これはよくできている。必見だろう。話を聞くと古戦場を歩くウォーキング大会の時には大勢の人が集まるとか。コースには決戦コース、西軍大好きコース、東軍大好きコースと色々あるらしいが、まずは歩程約1時間半の決戦コースを選んで歩きだした。

 北へ向かって陣場野の手前を左折してしばらく行って、小池北の手前を今度は右折すると決戦地だ。家康の本陣は関ヶ原盆地の東方にある桃配山にある。前衛に展開していた井伊直政が決戦の火蓋を切って落とした開戦地は、この辺りよりもう少し南にくだったところにある。対する西軍は鶴翼の陣でこれを迎え撃つ。関ヶ原古戦場の石碑の周りには幟が翻り、往時の風を感じさせてくれた。この決戦地から西北の方角といっても指呼の間にある笹尾山が三成の陣である。小高い斜面を登っていくと竹矢来・馬防柵が復元されていた。さらに5分程で登れる展望台にたどり着く。おお、思わず声が上がる。関ヶ原が一望のもとに広がっている。三成も同じ景色を見ていたのだろう。激戦は続き、双方一進一退の攻防を繰り返す中、家康は本隊を先ほどの陣場野まで前進させ、東軍の士気を高める。

 三成の陣から南に西軍は蒲生、島津、小西、宇喜多、大谷、平塚と続くが、さらにその南の松尾山に陣取っていた小早川秀秋が裏切って山を降り西軍側に突撃したのが正午頃。戦況は一変し、西軍は混乱。小西隊の壊滅に続いて、宇喜多軍が敗退し、大谷隊は全滅、勇戦した三成の部隊も四散した。有名な島津の敵中突破はこの時の話だ。開戦当初は盆地に入った東軍を周りの山から見下ろすように布陣した西軍は圧倒的に有利な形であったが、家康の調略が効いたのか、東軍の圧勝で終わった。家康を目の前にして敗れた三成の心中は如何ばかりであったか。私の心はその日にタイムスリップしていた。

 その時、三成の陣跡の脇から黒い鎧兜に身を固めた武士が立ち現れたのである。思わずぎょっとしてフリーズしてしまった。そんな馬鹿な、と思う間もなく武士はおもむろに近づくと両手を前に突き出して妙な形に構えた。そして私に軽い声で「シャッター押しましょうか」と言ったのである。何と観光宣伝のためのパフォーマンスであった。アルバイトだという。

我に返って下を見れば、赤糸縅の鎧に身を固めたパンチパーマの若者がちょうどスポーツカーから降りたところで、彼はトランクから出した兜をかぶり、刀を腰に差すと開戦地の方へ歩いて行った。黒い武士は島左近と名乗った。正しくは島清興とされるが、三成には過ぎたる武将と言われた逸材である。この日、討ち死にした。びっくりしましたよ、と言って私は笑った。彼も失礼いたしたでござる、とか言って笑った。享年61歳のはずだが、彼は30代か、若い左近だった。そろそろ観光客が来る頃です、と言って山を下りて行った。

 それからは先を急いで各コースを歩き回った。ついでに「不破関」も見学した。

 夕刻、私は駅に戻り今夜の宿がある大垣行きの電車を待った。夕闇迫る西北の空には明日登る予定の伊吹山が笹尾山の後方に黒々と見えていた。