歴史を歩く(1)水城跡から大宰府政庁跡へ

 

 3年ほど前、仕事で福岡空港に降りた際、時間があったので、福岡から鹿児島本線に飛び乗った。駅を出てからしばらくしてやや左にカーブしたが、それからはほぼ一直線に福岡平野を南東方向に進む。20分ほど過ぎたであろうか、東の山地と西に見える台地がややせり出して平野部が狭まったと思われるところに水城駅があった。

 もし、外敵が博多湾に上陸すれば、この平野部をまっすぐに進撃して来るは必定だろう。海岸部に橋頭保を作った敵は、御笠川沿いに軍を進めて来る。海岸部の前線を突破された我が軍としてはここに防衛ラインを構築しなければ、この地より目と鼻の先にある大宰府はひとたまりもなく陥落するに違いない。いかなる精鋭部隊でも平坦な地において怒涛のごとく襲来する大軍を迎え撃つのは至難であろう。大宰府が占拠されれば、敵はさらに南に進み、耳納山地を正面に眺めて、右につまり西へ筑紫平野を蹂躙し、東は甘木、朝倉を経て一気に日田まで攻め上るだろう。北九州が敵の占領下に入るのは時間の問題である。当時の日本側の危機感は想像に難くない。

 水城は664年、唐と新羅の侵攻に備えて築かれた防衛施設であり、福岡平野から筑紫平野へ続く平地を閉塞する「遮断城」と言ってよい。構造は全長約1.2キロメートル、高さ14メートル×基底部の幅約80メートル・上部幅約25メートルの二段構造の土塁となっている。博多側には幅60メートル×深さ4メートルほどの外濠が存在する。この外濠は現在では現水田面より5メートル下に存在している。今では土塁全体が樹木に覆われ、さらに鉄道や道路などのよって寸断されているが、当時の姿をかなり残している。道路や鉄道で大きく寸断された所で土塁の上に上がれるところがあり、小さな園地となっていた。そこからは遥か博多に続く平野部が見渡され、水城築城時の防人の緊張感が想像できる。周囲には東側の四大寺山に大野城が、西側の台地には水城と一連の土塁がいくつも築かれ、「小水城」と総称されているようだ。

 水城には東門と西門が設けられ、博多湾方面から2道が通過していた。時間があったので東門跡を訪ねることができた。門柱の礎石が残っていたが、すぐ傍が自動車道となっており、全体を写真に収めようと数歩下がると道路上に出てしまい、危なくて写真を撮るのに苦労した。往時からでは想像もできないことだろう。

 水城跡を離れ次は大宰府政庁跡に向かった。西鉄天神大牟田線下大利駅から隣の都府楼前駅で下車、関屋の交差点を渡って右に歩いていくと大宰府政庁跡がある。途中の案内板に太宰府天満宮とあり、なぜ大でなくて太なのか不思議に思ったが、政庁跡の説明書きで了解した。古代の木簡には大と表記されており、歴史的用語としては「大宰府」、都市名や天満宮では「太宰府」という表記を用いているとのことだ。唐名は「都督府」であり、地元ではこの史跡を「都府楼跡」などとも呼称するらしい。そういえば最寄りの駅名も「都府楼前」であった。

 外交と防衛を主任務とする大宰府は、西海道諸国や壱岐対馬島等については行政や司法も所管した。その権限の大きさから「遠の朝廷(とおのみかど)」と言われた。政庁の面積は約25万4000平方メートル、甲子園の約6.4倍である。もっとも、今は野原となっている、その中心部だけを目にすることができるのだが、レプリカとはいえ大きな礎石が一面に並んでいる様は壮観で往時をしのばせるものがあり、菅原道真など遥々この地に赴任した人たちに思いを馳せてしばし佇んでいた。平日だったせいか、訪れる人もほとんどなく、近所に住んでいるらしいお年寄りが一人二人散歩しているだけだったのが印象に残っている。

 風水を取り入れたパワースポットの地としても有名なようで、北(玄武)に大野山、東(青龍)に御笠川、南(朱雀)に二日市温泉、西(白虎)に西海道がある場所に「大宰府」が置かれたと説明されている。そう言われてみればここに立っているだけで何となく気宇壮大な気持ちになるから不思議なものである。

 大陸の政情に大きく揺れ動いた古代日本、その危機感は現代にも通じるものがあると感じながら急ぎ足で福岡に戻った。