歴史を歩く(4)土方歳三と五稜郭の戦い

札幌での会議が終わった翌日、私は函館に立ち寄った。土方歳三終焉の地をどうしても訪れたかったのである。亡くなった父は生前、栗塚旭氏が演ずるテレビの土方が好きだったが、その影響もあってか、私も栗塚土方のファンになった。

 その後、新選組の故郷ともいうべき日野にある「土方歳三資料館」や京都の壬生寺を訪ねたり、関連した書物をむさぼるように読んだりして、史実としての土方の生涯にも興味を持つようになった。

 時に明治2年(1869年)5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始され、箱館山から急襲した新政府軍部隊は箱館市街地を制圧、本隊の先鋒は五稜郭に迫った。

 函館山からの景観を楽しんだ私は、新政府軍と同様に北を目指す。市電やバスを使うこともできたが、歩くことにした。地図で見れば直線距離で5キロ程度だ。1時間半もかかるまい。函館山ロープウェイの下から市電の道に沿って進み、松風町から新川町を経て亀田川を渡って千代台公園を左に見ながら北上し、五稜郭を目指した。額の汗をぬぐいながら、もう

そろそろかな、という時だ。私はぎょっとして上を仰いだ。何と宇宙センターのような建築物がそびえているではないか。初めて五稜郭タワーを見た私の意識は一気に戊辰戦争の時代から現代に引き戻されてしまった。銃を構えて進撃していた兵士たちの姿は消え、私の周囲はいつの間にか春爛漫を楽しむ観光客で埋まっていた。

 ここまで来たからには見逃す手はあるまいと、私は展望室に上がり、眼下に五稜郭を眺め、さらには函館山津軽海峡は勿論、遥か北海道の大地を眺望して、爽快な気分を味わった。そこに土方歳三のブロンズ像まであったのには驚いたが、まだまだ最期を迎えさせるわけにはいかぬと、タワーを降りて、五稜郭の入口へ向かった。

 五稜郭は幕末に築かれた稜堡式の城郭である。しかし、完成から2年後に幕府が崩壊し、短期間新政府の箱館府が使用したが、明治元年(1868年)10月26日、旧幕府軍が占拠、その本営が置かれた。しかし、翌年3月9日、新政府軍の艦隊が蝦夷地へ向けて品川沖から出航、4月9日には日本海側の乙部に上陸し、江刺を奪還、3方向から箱館へ進撃した。五稜郭旧幕府軍は5月12日、箱館港内からの艦砲射撃で大きな被害を受け、15日には11日以来孤立していた弁天台場が、続いて18日には榎本武揚らが降伏して五稜郭は新政府軍に明け渡された。

 土方が戦死したのは11日である。島田魁らが守備していた弁天台場が新政府軍によって包囲されたのを知った土方は、孤立した味方を守らんと寡兵を率いて出陣した。箱館市街を目指して真一文字に突き進んだ土方は箱館一本木関門まで来ると、敗走してくる旧幕府軍を叱咤激励し、兵をまとめて進撃させるとともに、自らは関門を守備、新政府軍に応戦した。「我この柵にありて、退く者を斬らん」と叫んだといわれるが、新選組副長としての鬼の面目躍如たるものがあろう。この乱戦中に銃弾が腹部に当たり絶命したというのが通説である。頑強に最後まで抵抗しようとする土方を良しとしない味方によって暗殺されたとする説もあるが、蝦夷共和国の閣僚8人の中で歳三だけが戦死したことを思うと、さもありなんという気もする。遺体の埋葬場所が未だに特定されていないのも不思議である。

 花見客の間を縫うようにして堡塁の上を歩いた。本塁の高さは7.5メートル、上部の塁道の幅は8メートルというが、これ以上の強固な防御壁はなかったようで、外から砲撃を受ければ土塁の内側は相当な被害を受けるのではないかと思われた。砲弾の飛び交う血と硝煙の世界を想像してみたが、周りはうららかな春である。家族連れの観光客も多く、こちらも串団子でもほおばりながら花見といきたいところではあったが、そうはいかぬ。今日は行かねばならぬ所があるのだ。

 五稜郭タワーを左に仰ぎ見ながら一路南下する。再び箱館戦争の戦場がよみがえった。私は出撃した馬上の土方の背中を追うようにして先を急いだ。本町の交差点を右折し、再び亀田川を渡って宮前町の大きな交差点まで来ると、今度は左折して、それからは人通りのない道をほぼまっすぐに進み、松川町、大縄町と過ぎて若松町へ入った。馬上の土方は何を考え、どんな光景を見ていたのだろうか。息せき切ってさらに行くと、オオ、右側にあるではないか。わざわざ函館に来た甲斐があった。「土方歳三 最期の地碑」である。誠の旗の下、池田屋、鳥羽伏見、甲州勝沼、宇都宮、会津と奮戦してきた新選組副長の土方歳三はここで討ち死にしたのだ。私は感極まって熱くなった目頭を押さえながら碑の前に立ち尽くした。