歴史を歩く(6)葛城一言主神社と葛城古道

古事記」(712年)によれば、雄略天皇葛城山に登った時、天皇の一行と同様の格好をした一行に出会う。天皇が名を問うと、「吾(あ)は悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言、言離(ことさか)の神、葛城一言主之大神ぞ」と答えた。天皇は恐れかしこまって武器や官吏たちの衣服を一言主神に献上した。それらを受け取った一言主神は天皇の一行を皇居のある泊瀬(はつせ)の山の入り口まで見送った、とある。

 面白いのは「日本書紀」(720年)によると、雄略天皇一言主神が共に狩りを楽しんだことになっていて、天皇一言主神は対等の立場である。さらに「続日本紀」(797年)になると、天皇と獲物を争った一言主神(高鴨神)は天皇の怒りに触れて土佐国に流されている。822年の「日本霊異記」では何と、一言主神は役行者にこき使われている。ここまで地位が低下しているのは葛城氏の政治的勢力の低下が反映されていると言われるが、浅学の私にはよくわからない。なんだか一言主神がかわいそうでならない。葛城古道を歩こうと思った時、真っ先に葛城一言主神社に向かったのはこの同情心からである。

 近鉄御所(ごせ)駅からタクシーで鳥居の前まで来ると、「ここがいちごんさんです」と運転手が言った。柔らかな親しみを込めた声に私はほっとした。地元の人たちに親しまれている感じに救われた思いがした。芭蕉がやまとの国を行脚した時の句に「なお見たし 花にあけゆく 神の顔」とあるが、この神は一言主神である。

 一礼して鳥居をくぐると、すぐ左側に妙な石がある。「蜘蛛塚」と書かれた立札が立っていた。またまた「古事記」の話になるが、カムヤマトイワレビコノミコト(神武天皇)が宇陀から西に進軍した際、土雲という勇猛な土着民を征伐した、とある。これは彼らの霊を鎮めるためのものかもしれないと思って、一礼して手を合わせた。

 松並木の参道の先には第二の鳥居と石段があった。右わきに「葛城一言主神社」の大きな石碑。石段を上ると、そこからやや左に偏った場所に本殿が古色然として建っていた。明治9年に改築されているが、拝殿前には樹齢1200年ともされる銀杏の古木があり、古代から伝わる神域の雰囲気を漂わせている。誰もいない境内の中、この御神木を仰ぎ見ながら一人で佇むことしばし、10名近くの観光客のような一団が石段を登ってきた。混む前にと、拝殿を前に柏手を打って手を合わせる。参拝を終えて石段を下り、葛城古道の道標に導かれるように、神社に向かって右に入る道を行く。やや上り坂になっている。

 しばらく静かな山里の道を行くと、右側の林の中に、「綏靖天皇葛城高丘宮趾」の石碑があった。いわゆる欠史八代天皇である。現代の歴史学では実在を否定されているというが、諸説あるらしい。この高台に立って大和盆地を眺めていると、二代目の天皇の民を思う眼差しが想像できて実在を信じてしまいたい気持ちになる。

 葛城地方は有力な古代豪族葛城氏の支配地域であり、その始祖である葛城襲津彦(そつひこ)は、古事記によれば武内宿禰の子の一人である。葛城古道の南の方には高天原の実在地とされる場所もある。はるかな昔、大和建国にこの地方が何らかの形で関与したのは確かな気がする。さて、今歩いている古道は九品寺(くほんじ)に通じている。

 聖武天皇行基に開かせたとされる浄土宗の寺である。寺の由緒は省くが、南北朝時代に奉納されたと伝えられている千体石仏は素晴らしい。上に登っていくと道に沿って石仏が所狭しと並べられており、最奥には古代ローマの劇場を小さくしたような空間があり、その観覧席にも隙間なく石仏が置かれてあった。これだけの石仏にこちらが見られるのは初めてである。思わず両手を合わせた。

 九品寺から右手に奈良盆地を眺めながら北に向かう。と、斜め右前方に見えるではないか。左に耳成山、手前に大きく畝傍山、そして奥に天香久山大和三山のそろい踏みである。以前、山の辺の道を歩いた時、大神神社からこちらを眺めたことがあった。葛城山三輪山大和三山を挟んで対角線上に位置している。農地を右下に見ながら道はさらに続く。

 駒形大重神社、六地蔵と回って、道が東に転じたところに、鴨山口神社があった。県道30号線を渡ってすぐである。鴨は加茂でもあり、古代氏族の一つである。この神社の住所は御所(ごせ)市大字櫛羅(くじら)字大湊とある。古代の奈良盆地には大和湖という大きな湖があったというが、この辺りには船着き場があったのかも知れない。宇陀地方から産出した辰砂(赤色硫化水銀)の交易などに使われたのかなと、ボトルの水を飲みながら想像してしまう。さらに東に向かうと、左手に崇道天皇神社がある。非業の最期を遂げた早良親王を祀る神社だ。ここまで来れば、近鉄とJRの御所(ごせ)駅はほんの少し先である。

 一言主神に象徴されるような古代大和の栄枯盛衰を見守ってきた大和三山の姿が印象的な葛城古道であった。