歴史を歩く(7)越すに越されぬ田原坂

 明治10年3月4日、歩兵14連隊は田原坂を攻撃、薩軍は強固な陣地をもってこれに応戦した。征討軍である官軍は田原坂を抜けられず、向かい側の二俣台地を占領したにとどまった。ここに日本合戦史上、稀有な激戦と言われる田原坂攻防戦の幕が切って落とされた。戦闘の状況は「新編西南戦史」(陸上自衛隊北熊本修親会編)を参考にしたものである。

 田原は標高100メートルほどの小さな丘陵地帯である。高瀬から植木に抜ける道が尾根伝いに通っていたが、博多から熊本まで大砲を牽引して運べる道幅があるのはこの道しかなかった。ここを突破できれば官軍は薩軍に包囲されている熊本城まで一気に押し寄せることができる。まさに戦略上の要地であり、薩軍が陣を固めた所以である。

 平成27年3月中旬の日曜日、熊本駅から9時20分発の鹿児島本線鳥栖行きに乗車した私は、9時37分には田原坂駅を下車、県道31号線を越え、そこから東に延びる上り坂を歩き、400メートル程先の四つ角を左に曲がった。田原坂の中心部に突入である。しかし、往時の面影はあまり感じられない。戦場とは程遠いのどかな道である。昔はうっそうと樹木が覆っていたらしいが、空が見える明るい道だ。当時を想像できないまま、歩くこと20分、左手に田原坂西南戦争資料館が見えてきた。近くには、たくさんの弾痕が残っている土蔵がある。まさか往時のものではあるまい、と思って資料館で調べると、昭和63年に当時の写真を参考にして再現されたものだという。それにしてもリアルである。激戦の凄まじさを如実に示している。

 3月7日、官軍諸隊は払暁一斉に攻撃機動を開始し、別働狙撃隊や砲兵隊の支援の下、集中攻撃をかけたが頑強に抵抗する薩軍の前に、力及ばず、いたずらに死傷者を増やすばかりであった。丘上の数火点の激しい争奪戦における戦闘は熾烈を極め、両軍の屍は各所に塁を築いた。夜に入ると薩軍は二俣原の官軍諸隊に対して一大逆襲を加え、台上の官軍を壊乱させて兵を収めている。

 3月9日、官軍は二俣の南、横平山の攻略を目指す。ここは薩軍の防衛線の中央部分を崩すために必要な場所であった。しかし、薩軍からの激しい銃撃と薩摩隼人の精悍な抜刀隊による白兵戦に押されるばかりであった官軍はついに警察官による抜刀隊を編成、14日からの攻撃に投入した。「われは官軍わが敵は、天地容れざる朝敵ぞ」と歌う軍歌「抜刀隊」はこの時の功を讃えたものだという。官軍抜刀隊はほとんどが戦死。この日だけで官軍の死傷者は321名に達した。15日、〇四〇〇に薩軍が官軍陣地に突入、横平山を占拠、死守せんとするも官軍側が一六〇〇に奪回した。17日には官軍は払暁より西側と正面から攻撃を開始した。だが、田原坂を抜くことはかなわなかった。死闘に次ぐ死闘は酸鼻を極めた。

 資料館周辺を歩いたが、当時を想像することは難しかった。どの辺りに陣地があったのか、どの斜面を官軍は登って突撃したのか、双方の抜刀隊が切り合ったのはどの辺りか、色々と想像をたくましくするのだが、よくわからない。この空間は確かにおびただしい銃弾が飛び交い、血潮が飛び散った所なのだろうが、今は砲声もなく、時折観光客を乗せてきたタクシーがのんびり通るだけである。ああ、隔世の感なり。

 3月20日雨、総攻撃の日、官軍は開戦以来最大の兵力を投入した。〇五〇〇、官軍主力は豪雨をついて出発、六〇〇〇先鋒諸隊は田原坂南部地区薩軍陣地に近迫、号砲三発を合図に吶喊とともに突撃前進、右翼は敵の第一火点を占領する。砲隊は機を失せず射程を延伸して後方陣地に制圧射撃を加えた。これによって七本(ななもと)地区の薩軍は壊乱した。しかし、正面の薩軍は頑強に奮闘し、容易には抜けず、官軍は十四連隊をもって背面攻撃を、さらには横平山の砲兵陣地からの猛砲撃を加え、一〇〇〇に漸く占領。3月4日から17日間に及ぶ死闘を制した。この間の官軍側の戦死者は2401名に上った。詳細は不明だが薩軍も多大の戦死者を出したことは想像に難くない。田原坂を抜いて南進した官軍だが、向坂(むこうざか)では薩軍の激しい抵抗に会い、追撃を阻止されている。道を屍が埋め、雨を集めて流れる凹道は鮮血のため紅に染まった。

 この戦いで官軍側の発した弾薬は一日平均32万発、時に62万発にも及んだという。銃弾同士が衝突した「かちあい弾」も多く発見されている。想像を絶する戦場である。

 今では観光地となった田原坂。しかし、ここで確かに近代国家の礎を築いた凄惨な戦いがあったのだ。官軍の不撓不屈の攻撃精神と豊富な兵站力が薩摩隼人の強靭な精神力に打ち勝ったというべきか。ラストサムライが最後の意地を見せたと言うべきか。それにしても両軍の兵士の敢闘精神には頭が下がる。平和ボケの私には何も言う資格はないが、彼らの死力を尽くした姿を想像するに胸が熱くなった。

雨は降る降る人馬は濡れる、越すに越されぬ田原坂。合掌。

歴史を歩く(6)葛城一言主神社と葛城古道

古事記」(712年)によれば、雄略天皇葛城山に登った時、天皇の一行と同様の格好をした一行に出会う。天皇が名を問うと、「吾(あ)は悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言、言離(ことさか)の神、葛城一言主之大神ぞ」と答えた。天皇は恐れかしこまって武器や官吏たちの衣服を一言主神に献上した。それらを受け取った一言主神は天皇の一行を皇居のある泊瀬(はつせ)の山の入り口まで見送った、とある。

 面白いのは「日本書紀」(720年)によると、雄略天皇一言主神が共に狩りを楽しんだことになっていて、天皇一言主神は対等の立場である。さらに「続日本紀」(797年)になると、天皇と獲物を争った一言主神(高鴨神)は天皇の怒りに触れて土佐国に流されている。822年の「日本霊異記」では何と、一言主神は役行者にこき使われている。ここまで地位が低下しているのは葛城氏の政治的勢力の低下が反映されていると言われるが、浅学の私にはよくわからない。なんだか一言主神がかわいそうでならない。葛城古道を歩こうと思った時、真っ先に葛城一言主神社に向かったのはこの同情心からである。

 近鉄御所(ごせ)駅からタクシーで鳥居の前まで来ると、「ここがいちごんさんです」と運転手が言った。柔らかな親しみを込めた声に私はほっとした。地元の人たちに親しまれている感じに救われた思いがした。芭蕉がやまとの国を行脚した時の句に「なお見たし 花にあけゆく 神の顔」とあるが、この神は一言主神である。

 一礼して鳥居をくぐると、すぐ左側に妙な石がある。「蜘蛛塚」と書かれた立札が立っていた。またまた「古事記」の話になるが、カムヤマトイワレビコノミコト(神武天皇)が宇陀から西に進軍した際、土雲という勇猛な土着民を征伐した、とある。これは彼らの霊を鎮めるためのものかもしれないと思って、一礼して手を合わせた。

 松並木の参道の先には第二の鳥居と石段があった。右わきに「葛城一言主神社」の大きな石碑。石段を上ると、そこからやや左に偏った場所に本殿が古色然として建っていた。明治9年に改築されているが、拝殿前には樹齢1200年ともされる銀杏の古木があり、古代から伝わる神域の雰囲気を漂わせている。誰もいない境内の中、この御神木を仰ぎ見ながら一人で佇むことしばし、10名近くの観光客のような一団が石段を登ってきた。混む前にと、拝殿を前に柏手を打って手を合わせる。参拝を終えて石段を下り、葛城古道の道標に導かれるように、神社に向かって右に入る道を行く。やや上り坂になっている。

 しばらく静かな山里の道を行くと、右側の林の中に、「綏靖天皇葛城高丘宮趾」の石碑があった。いわゆる欠史八代天皇である。現代の歴史学では実在を否定されているというが、諸説あるらしい。この高台に立って大和盆地を眺めていると、二代目の天皇の民を思う眼差しが想像できて実在を信じてしまいたい気持ちになる。

 葛城地方は有力な古代豪族葛城氏の支配地域であり、その始祖である葛城襲津彦(そつひこ)は、古事記によれば武内宿禰の子の一人である。葛城古道の南の方には高天原の実在地とされる場所もある。はるかな昔、大和建国にこの地方が何らかの形で関与したのは確かな気がする。さて、今歩いている古道は九品寺(くほんじ)に通じている。

 聖武天皇行基に開かせたとされる浄土宗の寺である。寺の由緒は省くが、南北朝時代に奉納されたと伝えられている千体石仏は素晴らしい。上に登っていくと道に沿って石仏が所狭しと並べられており、最奥には古代ローマの劇場を小さくしたような空間があり、その観覧席にも隙間なく石仏が置かれてあった。これだけの石仏にこちらが見られるのは初めてである。思わず両手を合わせた。

 九品寺から右手に奈良盆地を眺めながら北に向かう。と、斜め右前方に見えるではないか。左に耳成山、手前に大きく畝傍山、そして奥に天香久山大和三山のそろい踏みである。以前、山の辺の道を歩いた時、大神神社からこちらを眺めたことがあった。葛城山三輪山大和三山を挟んで対角線上に位置している。農地を右下に見ながら道はさらに続く。

 駒形大重神社、六地蔵と回って、道が東に転じたところに、鴨山口神社があった。県道30号線を渡ってすぐである。鴨は加茂でもあり、古代氏族の一つである。この神社の住所は御所(ごせ)市大字櫛羅(くじら)字大湊とある。古代の奈良盆地には大和湖という大きな湖があったというが、この辺りには船着き場があったのかも知れない。宇陀地方から産出した辰砂(赤色硫化水銀)の交易などに使われたのかなと、ボトルの水を飲みながら想像してしまう。さらに東に向かうと、左手に崇道天皇神社がある。非業の最期を遂げた早良親王を祀る神社だ。ここまで来れば、近鉄とJRの御所(ごせ)駅はほんの少し先である。

 一言主神に象徴されるような古代大和の栄枯盛衰を見守ってきた大和三山の姿が印象的な葛城古道であった。

 

歴史を歩く(5)都心の富士塚を巡る

富士山の北東約18キロにある杓子山に登った。標高1597.6メートル。知る人ぞ知る富士の絶景ポイントである。五月晴れの下、遮る物のない真正面に雪を頂く富士山の全景を眺望できた。息を呑む美しさである。神々しいとでも言おうか。

 私は富士山に二度登っているが、雲海の果てから昇るご来光を拝んだ時は、宗教心の薄い私でもその都度思わず両手を合わせたことを覚えている。古来、噴火を繰り返した富士山は神の山として恐れられ、その怒りを鎮めるために遥拝され、信仰の対象とされてきた。江戸中期以降に盛んになった富士講も昔からの信仰の系譜を引いていると思われる。下山後、私は富士吉田の「御師旧外川家住宅」を訪ねた。

 富士急の富士山駅前のバス亭で降りると御師町通りに向かい、金鳥居公園を右に折れ富士山を目指してしばらく行くと、左側に目指す御師の家があった。この先の交差点を左折すれば、吉田口登山道入口にあたる北口本宮富士浅間神社がある。富士講は現代でもわずかながら命脈を保っており、富士塚もかなりの数が存在していると、御師の家のガイドさんから聞いた。これには驚いた。富士塚を見たいと思った。

 数日後、私は小雨降る千駄ヶ谷の駅で、歴史好きな友人である倉橋稔氏と待ち合わせた。彼は富士講富士塚にも詳しいので、案内を頼んだのである。以下、解説は倉橋氏による。

 千駄ヶ谷の駅から津田塾大学千駄ヶ谷キャンパスと東京体育館の間の道を道なりに進み、五差路になっている2つ目の信号で左の2本目を左折、次の角を右に折れると、鳩森八幡神社があった。境内には高さ6メートルの千駄ヶ谷富士と呼ばれる富士塚がある。確かに見上げるような立派なものであった。21世紀の都会の真ん中にこのようなものが存在していることは奇跡としか言いようがない。寛政元年(1789)築造との定説があるが、それ以前にも富士塚は存在していたらしい。円墳形に土を盛り上げ、頂上近くには黒ボク(富士山の溶岩)が配され、塚内には奥宮、金明水、銀明水、砂走り、浅間社、などのいわゆる富士山名所が具備されている。大正12年(1923)の関東大震災後の修復を経ているが、旧態をよく留めているとされる。現在でも祭礼が行われていると聞いて、私は富士山信仰の根強さに驚いた。そういえば富士登山した際に白装束のグループを見かけたのを思い出した。

 富士信仰は遥拝から修験者による修行の山へと変化し、中世以降は修行者以外にも信仰登山が増え、室町時代末期に長谷川角行なる人物が出て、富士講の原型が作られた。富士講は江戸時代後半には隆盛を極めた。富士塚も盛んに築造され、東京都下に現存するものだけでも100か所余りもあるという。都内最大の富士塚品川神社にある、高さ約15メートルの品川富士である。これは後日ということで、私たちは国立競技場駅から都営地下鉄大江戸線東新宿駅へ向かった。

 A1出口から西へ200メートルの信号を左折すると、稲荷鬼王神社がある。うっそうとした樹木に覆われた社殿の左側に富士塚があった。一合目から四合目までと、五合目から頂上までの塚が左右2つに分かれている。昭和43年(1968)の社殿再建の際、昭和5年(1930)に築造された塚を敷地の都合等で2分したのだという。元の塚を想像すると、3階建てに相当するような高さがあったのではないか。由緒によれば、古来ここにあった浅間神社を明治27年(1894)に合祀したということである。いつの間にか雨が止んでいた。

 元に戻って地下鉄の駅を過ぎ、文化センター通りに入って3つ目の道を左折すると、100メートル程先に見えてくるのが西向天神社だ。九州の太宰府天満宮に向かって建てられているので西向きなのだそうである。台地上にある境内は見晴らしが良かったと思われる。社殿右奥の広場のはずれに富士塚があった。斜面を利用して作られており、今は七合目付近から下が切り落とされ駐車場となっているが、そこからは見上げるばかりの高さである。4階建て以上に匹敵すると言ってよいだろう。この塚の築造は天保13年(1842)だが、大正14年(1925)には再築されている。さて、我々は雑踏の新宿駅へ向かった。

 新宿駅西口から青梅街道を西へ行くと、駅から10分程で右側に成子天神社がある。参道を歩いていくと左側に富士塚があった。大きい。高さは12メートルあるという。ビルの谷間ではあったが己の存在をしっかりと主張していた。堂々たるものである。元々あった「天神山」という小山に黒ボクを配したのでこれだけの高さになったということだ。我々が見守る中、年配のご婦人が危なっかしく一人で登山道を登っていき、辿り着いた山頂で両手を合わせた。偶然であろうが、雲間から太陽が顔をのぞかせた。富士塚全体が浮かび上がるように輝いた。解説をしていた倉橋氏がしばし口を閉じた。今日はいいものを見たと思った。

 

歴史を歩く(4)土方歳三と五稜郭の戦い

札幌での会議が終わった翌日、私は函館に立ち寄った。土方歳三終焉の地をどうしても訪れたかったのである。亡くなった父は生前、栗塚旭氏が演ずるテレビの土方が好きだったが、その影響もあってか、私も栗塚土方のファンになった。

 その後、新選組の故郷ともいうべき日野にある「土方歳三資料館」や京都の壬生寺を訪ねたり、関連した書物をむさぼるように読んだりして、史実としての土方の生涯にも興味を持つようになった。

 時に明治2年(1869年)5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始され、箱館山から急襲した新政府軍部隊は箱館市街地を制圧、本隊の先鋒は五稜郭に迫った。

 函館山からの景観を楽しんだ私は、新政府軍と同様に北を目指す。市電やバスを使うこともできたが、歩くことにした。地図で見れば直線距離で5キロ程度だ。1時間半もかかるまい。函館山ロープウェイの下から市電の道に沿って進み、松風町から新川町を経て亀田川を渡って千代台公園を左に見ながら北上し、五稜郭を目指した。額の汗をぬぐいながら、もう

そろそろかな、という時だ。私はぎょっとして上を仰いだ。何と宇宙センターのような建築物がそびえているではないか。初めて五稜郭タワーを見た私の意識は一気に戊辰戦争の時代から現代に引き戻されてしまった。銃を構えて進撃していた兵士たちの姿は消え、私の周囲はいつの間にか春爛漫を楽しむ観光客で埋まっていた。

 ここまで来たからには見逃す手はあるまいと、私は展望室に上がり、眼下に五稜郭を眺め、さらには函館山津軽海峡は勿論、遥か北海道の大地を眺望して、爽快な気分を味わった。そこに土方歳三のブロンズ像まであったのには驚いたが、まだまだ最期を迎えさせるわけにはいかぬと、タワーを降りて、五稜郭の入口へ向かった。

 五稜郭は幕末に築かれた稜堡式の城郭である。しかし、完成から2年後に幕府が崩壊し、短期間新政府の箱館府が使用したが、明治元年(1868年)10月26日、旧幕府軍が占拠、その本営が置かれた。しかし、翌年3月9日、新政府軍の艦隊が蝦夷地へ向けて品川沖から出航、4月9日には日本海側の乙部に上陸し、江刺を奪還、3方向から箱館へ進撃した。五稜郭旧幕府軍は5月12日、箱館港内からの艦砲射撃で大きな被害を受け、15日には11日以来孤立していた弁天台場が、続いて18日には榎本武揚らが降伏して五稜郭は新政府軍に明け渡された。

 土方が戦死したのは11日である。島田魁らが守備していた弁天台場が新政府軍によって包囲されたのを知った土方は、孤立した味方を守らんと寡兵を率いて出陣した。箱館市街を目指して真一文字に突き進んだ土方は箱館一本木関門まで来ると、敗走してくる旧幕府軍を叱咤激励し、兵をまとめて進撃させるとともに、自らは関門を守備、新政府軍に応戦した。「我この柵にありて、退く者を斬らん」と叫んだといわれるが、新選組副長としての鬼の面目躍如たるものがあろう。この乱戦中に銃弾が腹部に当たり絶命したというのが通説である。頑強に最後まで抵抗しようとする土方を良しとしない味方によって暗殺されたとする説もあるが、蝦夷共和国の閣僚8人の中で歳三だけが戦死したことを思うと、さもありなんという気もする。遺体の埋葬場所が未だに特定されていないのも不思議である。

 花見客の間を縫うようにして堡塁の上を歩いた。本塁の高さは7.5メートル、上部の塁道の幅は8メートルというが、これ以上の強固な防御壁はなかったようで、外から砲撃を受ければ土塁の内側は相当な被害を受けるのではないかと思われた。砲弾の飛び交う血と硝煙の世界を想像してみたが、周りはうららかな春である。家族連れの観光客も多く、こちらも串団子でもほおばりながら花見といきたいところではあったが、そうはいかぬ。今日は行かねばならぬ所があるのだ。

 五稜郭タワーを左に仰ぎ見ながら一路南下する。再び箱館戦争の戦場がよみがえった。私は出撃した馬上の土方の背中を追うようにして先を急いだ。本町の交差点を右折し、再び亀田川を渡って宮前町の大きな交差点まで来ると、今度は左折して、それからは人通りのない道をほぼまっすぐに進み、松川町、大縄町と過ぎて若松町へ入った。馬上の土方は何を考え、どんな光景を見ていたのだろうか。息せき切ってさらに行くと、オオ、右側にあるではないか。わざわざ函館に来た甲斐があった。「土方歳三 最期の地碑」である。誠の旗の下、池田屋、鳥羽伏見、甲州勝沼、宇都宮、会津と奮戦してきた新選組副長の土方歳三はここで討ち死にしたのだ。私は感極まって熱くなった目頭を押さえながら碑の前に立ち尽くした。

 

歴史を歩く(3)天下分け目の関ヶ原

0626東京駅発新幹線ひかり501号新大阪行きに乗車、名古屋で東海道本線特別快速米原行きに乗り換えて0919関ヶ原下車。いよいよ出陣の時。戦闘開始は慶長5915日(西暦16001021日)午前8時頃とされている。1時間ほど遅参いたしたか、急がねばと、改札口を躍り出た。五月晴れの空のもと、幾本かの旗がへんぽんとしている。いざ、家康の陣か、三成か、気がせく中によく見れば「関ヶ原へようこそ」と観光宣伝の旗だった。目の前にある観光案内所で史跡めぐりの地図をもらうと、まずは駅の北側にある関ヶ原町歴史民俗資料館へ向かう。

諸説あるのは承知だが、東西合わせて15万ともいわれている大軍がその日この地にひしめいていたのだ。陣馬のいななき、兵士の雄叫び、ほら貝と鉄砲隊の響き、戦場の血と汗のにおいが充満する関ヶ原にとうとうやってきたぞ、と周りを見渡したが、誰もいない。のどかな朝の風景だ。拍子抜けがした。遠くに犬を散歩している若い夫婦連れらしいのが1組と、道路を挟んだ向かい側の歩道を腰の曲がった老婆が一人歩いているだけだ。そもそも自動車がほとんど走っていない。今日は土曜日。観光客も多いはずだが、観光バスはまだ1台も止まっていない。まだ早いのかもしれない。気を取り直して先に進む。周りの山々は新緑に覆われている。空気が澄んでいる。雲一つない快晴だ。もっとも合戦当日の朝は前夜からの霧で見通しがきかなかったと言われている。

 資料館では合戦時の東西両軍の陣形と戦いの流れを大型ジオラマで見ることができた。これはよくできている。必見だろう。話を聞くと古戦場を歩くウォーキング大会の時には大勢の人が集まるとか。コースには決戦コース、西軍大好きコース、東軍大好きコースと色々あるらしいが、まずは歩程約1時間半の決戦コースを選んで歩きだした。

 北へ向かって陣場野の手前を左折してしばらく行って、小池北の手前を今度は右折すると決戦地だ。家康の本陣は関ヶ原盆地の東方にある桃配山にある。前衛に展開していた井伊直政が決戦の火蓋を切って落とした開戦地は、この辺りよりもう少し南にくだったところにある。対する西軍は鶴翼の陣でこれを迎え撃つ。関ヶ原古戦場の石碑の周りには幟が翻り、往時の風を感じさせてくれた。この決戦地から西北の方角といっても指呼の間にある笹尾山が三成の陣である。小高い斜面を登っていくと竹矢来・馬防柵が復元されていた。さらに5分程で登れる展望台にたどり着く。おお、思わず声が上がる。関ヶ原が一望のもとに広がっている。三成も同じ景色を見ていたのだろう。激戦は続き、双方一進一退の攻防を繰り返す中、家康は本隊を先ほどの陣場野まで前進させ、東軍の士気を高める。

 三成の陣から南に西軍は蒲生、島津、小西、宇喜多、大谷、平塚と続くが、さらにその南の松尾山に陣取っていた小早川秀秋が裏切って山を降り西軍側に突撃したのが正午頃。戦況は一変し、西軍は混乱。小西隊の壊滅に続いて、宇喜多軍が敗退し、大谷隊は全滅、勇戦した三成の部隊も四散した。有名な島津の敵中突破はこの時の話だ。開戦当初は盆地に入った東軍を周りの山から見下ろすように布陣した西軍は圧倒的に有利な形であったが、家康の調略が効いたのか、東軍の圧勝で終わった。家康を目の前にして敗れた三成の心中は如何ばかりであったか。私の心はその日にタイムスリップしていた。

 その時、三成の陣跡の脇から黒い鎧兜に身を固めた武士が立ち現れたのである。思わずぎょっとしてフリーズしてしまった。そんな馬鹿な、と思う間もなく武士はおもむろに近づくと両手を前に突き出して妙な形に構えた。そして私に軽い声で「シャッター押しましょうか」と言ったのである。何と観光宣伝のためのパフォーマンスであった。アルバイトだという。

我に返って下を見れば、赤糸縅の鎧に身を固めたパンチパーマの若者がちょうどスポーツカーから降りたところで、彼はトランクから出した兜をかぶり、刀を腰に差すと開戦地の方へ歩いて行った。黒い武士は島左近と名乗った。正しくは島清興とされるが、三成には過ぎたる武将と言われた逸材である。この日、討ち死にした。びっくりしましたよ、と言って私は笑った。彼も失礼いたしたでござる、とか言って笑った。享年61歳のはずだが、彼は30代か、若い左近だった。そろそろ観光客が来る頃です、と言って山を下りて行った。

 それからは先を急いで各コースを歩き回った。ついでに「不破関」も見学した。

 夕刻、私は駅に戻り今夜の宿がある大垣行きの電車を待った。夕闇迫る西北の空には明日登る予定の伊吹山が笹尾山の後方に黒々と見えていた。

 

歴史を歩く(2)山の辺の道~石上神宮から大神神社へ~

 五月晴れの日だった。京都から近鉄京都線の急行に乗って1時間、天理駅で下車する。駅前からほぼ真東に伸びている通りをまっすぐに歩いていくと、天理教関連の建物群が尽きるあたりから右前方の高台に鬱蒼とした森が見えてくる。石上神宮(いそのかみじんぐう)である。国宝の七支刀(しちしとう)で有名だが、日本最古の神社の一つで、物部氏の総氏神とされている。物部氏といえば古代の警察や軍事などの職務を担当していた氏族というイメージがあり、神さびた自然の姿を残している常緑樹の森に囲まれた拝殿を前にしていると、境内の物陰から武装した兵士が出てきそうな感じがして背筋がぶるっとした。

 石上神宮から道は小さく右に左に曲がりながらも山際をひたすら南下する。桜井駅を目指して約15キロの行程だ。この山の辺の道は古代では三輪山麓から春日山麓まで盆地の東縁を縫うように通じていた道で、歴史上は日本最古の道とされている。もっとも石上神宮から北部の道は長年月にわたる風化のため現代では道筋をたどるのは難しくなってしまったが、周辺には古墳も多く、奈良盆地にある古墳群の一角を占めている。古代史ファンにとってはロマンを掻き立ててくれるような道だ。

 人麻呂万葉歌碑、芭蕉句碑、夜都伎(やとぎ)神社、竹之内環濠集落と過ぎるうち、右手前方に遠く大和三山が見えてくる。天香久山畝傍山耳成山だ。のどかな道はさらに続く。右手にある戦艦大和の守護神とされていた大和神社への道を確認しながら崇神天皇陵(行燈山古墳)を目指す。一般的には大和朝廷創始者と言われている第10代の天皇だ。およそ3世紀前半から中頃にかけて実在したとされる。現状では墳丘全長242メートル、後円部の径158メートル、前方部の幅100メートルの前方後円墳となっている。神武天皇と同様に「ハツクニシラススメラミコト」と称えられるのはどのような意味があるのか。浅学の身では論じることもできないが、大きな古墳を眺めていると古代の大王(おおきみ)の権威をまざまざと感じ取ることができる。手元のガイドマップにはここから見る夕景は絶景とあるが、夕刻までに宿に入りたい私はコンビニで買ってきたおにぎりの昼食もそこそこに先を急いだ。

 次にあるのは景行天皇陵(渋谷向山古墳)。崇神天皇陵の南側の尾根筋にある大きな前方後円墳だ。墳丘全長300メートル、後円部の径160メートル、前方部の幅170メートルである。景行天皇といえば倭建命(日本武尊)の話を思い出す。「やまとは 国のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる やまとしうるはし」高校時代に古事記を習った時に覚えた歌である。当時、弟橘比売命の話はアニメ化したらいいなあと思っていた。

 ゆっくり見ながら歩いていたのでいつの間にか午後2時を回ってしまった。額田王万葉歌碑の前を心持ち速足で過ぎていくと、纏向古墳群のエリアに入ってきた。盟主ともいうべき箸墓古墳を見ようと道を右に折れた。しばし歩くこと10分程で右側にホケノ山古墳があったが、これは申し訳ないが駆け足で見学してさらに西へ向かうと目指す古墳が見えてきた。墳丘全長280メートル、後円部の径160メートル、前方部の幅140メートルの前方後円墳だ。近くからだと大きさや形がよくわからなかったが、周囲をぐるっと回って北西部に残っている周濠(今では箸中大池というため池になっている)ごしに眺めて初めてその全容をつかむことができた。「ヤマトトトヒモモソヒメノミコト」という舌を噛みそうな名前の皇女の墓として管理されている。卑弥呼の墓とする説もあるようだが、私にはよくわからない。卑弥呼には北九州がよく似合うんだがなあと思いながら疲れてきた足を前に進めた。

 元の道に戻るといつの間にか影が長く伸びているのに気付いた。ヤマトタケル歌碑も檜原神社もあわただしく過ぎて、狭井神社の右手にあった展望台から奈良盆地を一望する。「これがまほろばの地だ」とか何とか勝手に感動してから、ふと後ろを仰ぎ見ると、恐れ多くも三輪山がどっしりとその威容を見せていた。

 大神神社(おおみわじんじゃ)は本殿を持たず三輪山をご神体とする古い神社で、大和国一之宮である。山頂には磐座とされる巨石群があるという。当然登拝すべしと思ったが、陽は低く傾いていてその余裕はなかった。地元のガイドの方であろうか、10人近くの観光客と思しき人たちに向かって声高に説明をしているのを横目に道を急ぎ、海拓榴市(つばいち)観音堂、仏教伝来の地碑と見て回り、近鉄桜井駅への近道を通って陽の落ちる頃、やっと駅近くにある今夜の宿にたどり着いた。

 駆け足ではあったが古代の空気を吸えたような気がした。やまとしうるはし。

歴史を歩く(1)水城跡から大宰府政庁跡へ

 

 3年ほど前、仕事で福岡空港に降りた際、時間があったので、福岡から鹿児島本線に飛び乗った。駅を出てからしばらくしてやや左にカーブしたが、それからはほぼ一直線に福岡平野を南東方向に進む。20分ほど過ぎたであろうか、東の山地と西に見える台地がややせり出して平野部が狭まったと思われるところに水城駅があった。

 もし、外敵が博多湾に上陸すれば、この平野部をまっすぐに進撃して来るは必定だろう。海岸部に橋頭保を作った敵は、御笠川沿いに軍を進めて来る。海岸部の前線を突破された我が軍としてはここに防衛ラインを構築しなければ、この地より目と鼻の先にある大宰府はひとたまりもなく陥落するに違いない。いかなる精鋭部隊でも平坦な地において怒涛のごとく襲来する大軍を迎え撃つのは至難であろう。大宰府が占拠されれば、敵はさらに南に進み、耳納山地を正面に眺めて、右につまり西へ筑紫平野を蹂躙し、東は甘木、朝倉を経て一気に日田まで攻め上るだろう。北九州が敵の占領下に入るのは時間の問題である。当時の日本側の危機感は想像に難くない。

 水城は664年、唐と新羅の侵攻に備えて築かれた防衛施設であり、福岡平野から筑紫平野へ続く平地を閉塞する「遮断城」と言ってよい。構造は全長約1.2キロメートル、高さ14メートル×基底部の幅約80メートル・上部幅約25メートルの二段構造の土塁となっている。博多側には幅60メートル×深さ4メートルほどの外濠が存在する。この外濠は現在では現水田面より5メートル下に存在している。今では土塁全体が樹木に覆われ、さらに鉄道や道路などのよって寸断されているが、当時の姿をかなり残している。道路や鉄道で大きく寸断された所で土塁の上に上がれるところがあり、小さな園地となっていた。そこからは遥か博多に続く平野部が見渡され、水城築城時の防人の緊張感が想像できる。周囲には東側の四大寺山に大野城が、西側の台地には水城と一連の土塁がいくつも築かれ、「小水城」と総称されているようだ。

 水城には東門と西門が設けられ、博多湾方面から2道が通過していた。時間があったので東門跡を訪ねることができた。門柱の礎石が残っていたが、すぐ傍が自動車道となっており、全体を写真に収めようと数歩下がると道路上に出てしまい、危なくて写真を撮るのに苦労した。往時からでは想像もできないことだろう。

 水城跡を離れ次は大宰府政庁跡に向かった。西鉄天神大牟田線下大利駅から隣の都府楼前駅で下車、関屋の交差点を渡って右に歩いていくと大宰府政庁跡がある。途中の案内板に太宰府天満宮とあり、なぜ大でなくて太なのか不思議に思ったが、政庁跡の説明書きで了解した。古代の木簡には大と表記されており、歴史的用語としては「大宰府」、都市名や天満宮では「太宰府」という表記を用いているとのことだ。唐名は「都督府」であり、地元ではこの史跡を「都府楼跡」などとも呼称するらしい。そういえば最寄りの駅名も「都府楼前」であった。

 外交と防衛を主任務とする大宰府は、西海道諸国や壱岐対馬島等については行政や司法も所管した。その権限の大きさから「遠の朝廷(とおのみかど)」と言われた。政庁の面積は約25万4000平方メートル、甲子園の約6.4倍である。もっとも、今は野原となっている、その中心部だけを目にすることができるのだが、レプリカとはいえ大きな礎石が一面に並んでいる様は壮観で往時をしのばせるものがあり、菅原道真など遥々この地に赴任した人たちに思いを馳せてしばし佇んでいた。平日だったせいか、訪れる人もほとんどなく、近所に住んでいるらしいお年寄りが一人二人散歩しているだけだったのが印象に残っている。

 風水を取り入れたパワースポットの地としても有名なようで、北(玄武)に大野山、東(青龍)に御笠川、南(朱雀)に二日市温泉、西(白虎)に西海道がある場所に「大宰府」が置かれたと説明されている。そう言われてみればここに立っているだけで何となく気宇壮大な気持ちになるから不思議なものである。

 大陸の政情に大きく揺れ動いた古代日本、その危機感は現代にも通じるものがあると感じながら急ぎ足で福岡に戻った。